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人の名を呼ぶ時は・・・


仙明庵のブログをご覧下さり誠にありがとうございます。

 

今回は前回のブログの続きです。

教養教室で水司羽先生に教えて頂く中で、私が気付いた過ちとは、家族(妹、子供、孫)を呼ぶ時に呼び捨てにしていたことです。

家族であっても呼び捨ては良くないのです。

 

以前から、何となく家族でも呼び捨てにするのは良くないでは・・・と思っていたところに孝悌哲学で、たとえ親子でも呼び捨てはいけないと教えて頂きました。

 

そして同時期に6歳になる孫に「ばあば、呼び捨てはいかんのよ、○○○ちゃんと呼んで」と言われ心から反省しました。孫に、これからは○○○ちゃんと呼ぶから、今までごめんねと謝りました。

 

水司羽先生に教えて頂いている「孝悌学」とは所謂「家庭観、家族観、親子観、夫婦観、嫁姑観(嫁舅観)、男女論」を説いたもので「孝悌」の「孝」とは「子が親に心から大切にする」と言う意味で「悌」とは「兄や目上の人に穏やかに随う気持ち」又「すなお」と言う意味です。

 

私が過ちと気付いた教えは、生活の中で身近にあると思いますのでテキスト全文、ご紹介致しますね。

 

 

孝悌哲学  第二十二学  人の呼び名

 

人の名を呼ぶ時に所謂「呼び捨て」で呼ぶのか「~さん」「~君」又は「愛称」で呼ぶのかは人の接し方の根本に係る事になります。

 

人の名を「呼び捨て」にする人は無意識的に呼び捨てをします、特別に、悪意があるわけでは無い事が殆どです、一方で人の名を「~さん」「~君」「「愛称」で呼ぶ人は人の名を呼ぶ事自体に「親近感」「特別な思い」を込めて呼ぶ傾向があります。

 

高が人の名を呼ぶのに何を大げさな・・・と思うかも知れませんが、理想は「~さん」「~君」「~ちゃん」「愛称」で呼ぶ事が望ましいものです。

 

親子でも同じ事が言えます、子供は父母をお父さん、お母さんと呼ぶのが自然ですが、親が子供に対して「名を呼び捨て」にするのか「~ちゃん」「愛称」で呼ぶかで「愛情の深さ」が違って来ます。

 

これは一概には言えなくとも軽視できない側面もあります、人の名を呼び捨てにするという行為は「自分と対等かそれ以下」という認識をし易いものです、これがいざという時に相手を必要以上に見下したように相手に印象付けたり高圧的に感じられたりとします。

 

又、相手を敬わないといけない時などにボロが出やすくなります、一方日頃から相手に最低限の親しみや敬いの念を抱きやすい人の傾向は相手を呼ぶ時に「~さん」「~君」「愛称」で呼びます。

 

これは一定の「礼儀」に則り相手を呼びましょうというごく当たり前の事なのです、この必要性に気付けない人はどこかに「礼を欠いた言動」があるのではないでしょうか。  テキストここまで

 

 

人の名を呼ぶという事は人間関係を結ぶ初めの行為であり、如何に重要かこの学びでよくわかると思います、「呼び捨て」は良くないですね。

 

水司羽先生は「相手を配慮する」には「優しさ」「敬い」「礼儀」の三つ、つまり「仁の心、孝悌の心、礼の心」の、この三つを家族のお互いが持つ事により何か問題があっても問題が不必要に深刻化しないはずですと仰っています。

 

私も教養教室での学びをいかして愛情を持って家族に接していこうと思います。